Neutral Frame.

もう少し、写真を撮ろう

2025.10.24

「写真、撮るんですか」

隣の席の男性は、わたしの一眼レフを見て、目を輝かせながら質問した。

彼はバイクが好きで、愛車のアメリカンバイクを、乗るだけでなく、写真にも残したいらしい。少し酔っているのか、口調に熱が帯びていたが、真剣な興味で聞いていることが感じられた。

わたしはスマートフォンに入っている自分の写真をいくつか見せた。

「いい写真ですね。」

その言葉にはお世辞の響きがなく、まっすぐに届いた。

わたしはいつもカメラを持ち歩く。憧れの写真家のトークイベントで聞いた『持ち歩かなければ、写真は撮れない』、そのシンプルな真理に納得した。それから通勤鞄の中にもいつもカメラがある。

そんな理由で、わたしの写真は街中のスナップ、とりわけ仕事終わりに撮る夜の街のものが多い。技術を体系的に学んだことはない。とにかく数を撮る。現像してはじめて、思いがけない美しい光が映っていることがある。その「当たり」を期待して、数多くシャッターを切る。

ピントや構図がずれていても、そういう当たりの写真はある。最近はむしろそういうファジーなものに美しさを感じる。再現できない偶然性に惹かれるのだろう。意味はシャッターを切るときではなく、写し出された結果につける。わたしにとって、いい写真の条件とは「わたしが良いと思う写真」である。

「いいですね、そういうの」と彼が言うと、近くにいた人も興味を持ったのか、一緒に写真を見てくれている。

「カメラ、始めますか?こだわりだすと、深いですよ。いや、沼かもしれません。」と私が言うと、彼は「もう、頭を突っ込んじゃってますよ」と答えた。

「頭」?「片足」ではなく?

一瞬の沈黙のあと、「それ、もう沼にハマるどころか溺れてるじゃん」と誰かが指摘し、周囲が笑いに包まれた。彼も笑っていた。

笑い声の中、わたしは心に温かさを感じていた。

カメラは、誰に対しても共通する現実の世界を、その人ごとの視点で切り出す装置だ。だからこそ、わたしが好きな写真とは、技術として完璧でなくても、わたしの観る世界を表現しているものと言える。

わたしが好きな「曖昧な世界」を、他の人が肯定してくれている。その共鳴が嬉しかった。

ここのところ、写真はわたしの中に閉じた営みだった。SNSには載せることもあるが、言葉で評価をもらうことは少なく、自分の世界を確認するためにシャッターを切っていた。写真の枚数は、以前より少なくなっていた。

この夜、わたしの“解釈の余白”に、他者の視線が差し込んだ。わたしが見ている世界が、誰かの中で反射して光った。

曖昧で、少し滲んだわたしの世界。

人に見てもらう勇気を持ってもいいのかもしれない。もう少し写真を撮ろう。

ビールを含みながら、そう思った。

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