贈り物とためらい
贈り物を選ぶ、という行為が苦手だ。そのような場面を迎えると、相手に喜んで欲しい、という純粋な気持ちと同時に、その気持ちの押しつけが相手の迷惑にならないだろうか、という不安と遠慮が頭をもたげてくる。
贈り物をすることは、人と人との間に引かれた見えない線を、少し踏み越える行為だと思う。だからこそ、その一歩には、何かしらの意味が伴わなければならない気がしてしまう。ただの儀礼や形式ではない、相手への思いやりを表現する何かが必要だ。そう考えてしまうので、贈るという行為は、どうしても軽く扱えなくなってしまうのだ。
わたしのその感覚の根源をたどると、小学一年生の誕生日の記憶に行き着く。家で開いてもらった誕生会。友人たちが、それぞれの親に選んでもらったのであろうプレゼントを持ってきてくれた。アニメのキャラクターが描かれた文房具セット、流行していたロボットの玩具。そんな中に、ひとつだけ異質なものがあった。三つ上の姉の友人がくれた、当時人気のあった漫画のヒロインのプラモデルだった。
女の子の、しかも自分で組み立てるプラモデルをもらったことが、子ども心になんだかひどく恥ずかしかったのを覚えている。今思えば、姉の友人も、話したことが無い男の子に何をプレゼントすればいいかなんてわからなかっただろう。親御さんに用意してもらったものかも知れない。
しかし、幼少のわたしにそんな想像が働く余地は無かった。友だちの前でその戸惑いを隠すことができず、わたしは「これ、姉ちゃんにあげる」と言ってしまったのだ。姉の友だちが一瞬みせた、困ったような、傷ついたような表情を、今でもありありと思い出せる。すぐに母が飛んできて、わたしはこっぴどく叱られたけれど、それは救いでもあった。
誰かが自分のために時間と気持ちを使って「選んでくれた」という行為の重みを、残酷に拒んでしまった。相手の気持ちだけでなく、その場にいた人たちの間に流れていたはずの温かい何かを、決定的に壊してしまったという、取り返しのつかないじっとりとした感触が今も胸にへばりついている。私はお盆時期の生まれでみんな実家に帰省して不在になる。そのため、これが友人をあつめての最後の誕生日会となってしまった。この記憶を更新する機会は与えられなかった。
その体験のせいか、今でも、贈り物というものに対して、どこか緊張感を抱えている。家族へのお土産やプレゼントにさえ、喜ばれなかったらどうしようという不安で迷ってしまう。
そのため、旅行に行っても、友人や職場へのお土産を積極的に買おうとは思わない。個包装のお菓子を箱で買ってきて、「ご自由にどうぞ」と置いておく、あのやり取りは、あまりにも形式的で、誰の記憶にも残らない。わたしにとっては空虚なコミュニケーションに思えてしまう。
そこに好意が存在することは疑わない。ただ、贈る側も、もらう側も、深くはその意図を考える必要がない「手軽な贈答」に見える。わたしはそれが苦手である。相手への関心のなさの表れではないか、関係性を軽んじていることにならないか、といちいち考えてしまうのだ。つまり、自分がそれを行おうとする時に、とても疲弊してしまうのだ。好意によってなされるお土産文化を批判するつもりはない。あくまで問題はわたしの中で起こっている。
それでも、誰かに何かを贈りたい、と思う瞬間はある。感謝を伝えたい。喜んで欲しい。大切に思っているというささやかな証を残したい。そういう、人間としてごく自然な欲求は、わたしの中にもちゃんと存在する。
だからこそ迷う。相手の本当に望むものを完璧に言い当てることなんて、誰にもできない。もらいたくない、という選択肢だってあり得る。わたしが「これを贈りたい」と思った瞬間、そこにはもう、わたしの好みや価値観、相手に対する「こうあってほしい」という願望のようなものが、構造上どうしても入り込んでしまう。
「贈り物」という名の、ある種の「押しつけ」になってしまうのではないか、という恐れ。その恐れを抱えながらも、それでもなお、わたしは誰かに、何かを手渡したいと思うのである。
贈り物とは、結局のところ、この「ためらい」を抱えたまま行う行為だ。相手の領域に踏み越むことへの不安と、それでも何かを伝えたい切実な願いが、同じ場所に同居している。その両方を抱えたまま、ぎこちない手つきで、包みを差し出す。
それは、わたしなりの、相手への敬意を伴った誠実な行為なのだと思う。
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