「好き」の数え方
「大好き。全部」
彼は、ほとんど間を置かずにそう言った。
打ち合わせがひと段落して、雑談に流れたときのことだった。サッカーが好きなんですよ、と彼は言った。どのクラブが、と質問したことへの答えだった。
「全部、ですか」
彼は自然な様子で頷いた。どこか一つに決められなくて、という迷いではない。言葉通り、全部好きなのだという顔をしていた。
「この間の週末も、一日二試合観ましたね」
中継や配信の話かと思った。休日に家で何試合か観る人はいる。
「見終わってすぐ、次のスタジアムに移動して、それで…」
だが、彼の言う二試合は、現地観戦のことだった。昼にひとつ観て、夜までに別の会場へ移動する。そのあいだの移動中には、配信でもう一試合観る。
「だから、ああ、三試合ですね」
彼は、自分で数え直すように言った。数字が、こちらの理解より先に増えていく。
すごいですね、と言いかけてやめた。たぶん、そう言われ慣れているのだろうし、本人にとっては、すごいことをしている感覚でもなさそうだった。
口調は変わらず、昨日なにを食べたかを話すくらい、なんでもないことのようだった。
同じ調子で、音楽の話も出た。ロックバンドが好きで、ツアーを追いかけて、日本各地を遠征するらしい。チケットがなくても、とりあえず現地まで行く。当日券が出るかもしれないし、出なくてもいいのだそうだ。好きなバンドは指折り数えて両手を超えていた。
食べることも同じだった。これが特別、というよりは、たくさんの「好き」が次々に出てくる。
わたしは、自分が何かを好きになった時に、その理由を考えることが好きだ。同じバンドの同じ曲を、何度も再生し続けている。決まった銘柄の酒をいつも棚から取る。外食に出かければだいたいその店で頼むものは決まっている。自分がそれを選んでいる理由が、今の自分を作っている核であるように思っている。
ほかにも出会いはあるのだろうが、それを自ら探しに行こうと思うことは少ない。好きなものの数が多いことは問題ではない。むしろ、多ければその人を豊かにしてくれるはずだ。ただ、わたしは、あまり多くを取り入れようとして自分の核が揺らいでしまうことに慎重なのだと思う。
好きなものを聞けば、その人の輪郭が見える気がする。だから、その人が惹かれたものと、その理由を聞くことは楽しい。人が本心から好きを語る様子は、その高揚や喜びの感情もこちらに伝わってきて心地よいものだ。反対に、理由がうまく言えなかったり、こだわりが薄かったりすると、少しだけ残念に思う。
彼の「全部好き」は、そう感じなかった。ひとつひとつを粗く扱っているから「全部」なのではない。三試合観に行く、と言ったときの彼の口ぶりは、義務でも惰性でもなかった。一試合ごとに、その場に居ることを毎回選んでいる人の言い方だった。全部を選んでいるのだ。
わたしの「好き」は、選んだ理由を丁寧に棚に並べるようなもので、彼の「好き」は、選んだものを棚に置くよりもまず、身体ごとその場へ味わいに行く形をしている。わたしは長いあいだ、自分の形でしか「好き」の深さを測っていなかったのかもしれない。
打ち合わせが終わり、建物を出る。コンクリートに反射する日差しに目を細めた。汗ばむ気温だが湿度は低く、日陰に入るとひんやりして心地よかった。
電車に乗って、空いていた席に座る。クッションに沈む感触が心地よい。窓の外を、ビル群が途切れなく流れていく。
「大好き。全部」という言葉が、電車のモーター音に紛れて、何度か聞こえてきた。
電車を降りるとき、わたしは、自分の中にある好きなものを並べた棚を改めて眺め、順番に数えた。
わたしの好きのあり方は、たぶん、これからも変わらないだろう。それでも、全部、という数え方もあるのだと知った。
© 2026 SOU KANDA